昭和47年5月30日 朝の御理解
                   中村良一
御理解 第17節
「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」



信心を、させて頂いておりましても、本当に、神の綱が切れたのではなかろうかと思われるような事がございますね。私は、そういう時ほど、大事にしていかなければならない。そういう時ほど、元気を出さなければならない。それは、おかげの世界から、徳の世界へ移行していく。移り変わっていく時なのですから。ね。また、しだごだで、おかげの世界に戻ってしまう。その、おかげの世界だけで、一生終わったのでは、それは、何にもなりません。何もならんと言うが、むしろ、神様に借金が出来るようなものです。ね。誰だって、始めは同じ、いわゆる、おかげの世界から、段々、信心が分かってくる。そして、いわゆる、教祖の神様は、もう、ぎりぎり、お徳を受けることを説いておられるのです。金光教の信心は、ね。氏子信心しておかげを受けてくれよと言うは、それなんです。ね。願う氏子におかげを授け、ね。そして、その後に、理解申して聞かせと、その理解と言うのはもう、全部がお徳を受ける話ばかりなんです。だから、お話を聞かなくったって、お願いしたって、お参りしたって、改まりもせんでも、磨きもせんでも、おかげの受けられる世界が、金光教の、いわば、全部という事であったら大変です。ね。金光教の信心は、もう、そこから、次に、いわゆる、お徳を受ける、お徳の世界。それがです、ほんなら、神の綱が、もう切れたっじゃなかじゃろかと思うくらい。大体、神様は、聞いてくださりよるとじゃろかという様な時です。そこを、もう、大事に大事にして行く事によって、おかげを頂く。
まぁ、昨日の御理解から、言いますと、教祖の神様の、いわゆる、ご信心の内容のなかに、例えば、人から笑われるとか、人から悪口を言われるとか、もう、コリを積ませないとかという様な風に、金光様のご信心は、ばっかりに言う人がありますよね。円満な信心として。いわゆる、教祖様が、神様から、裸足の行を仰せ付けられなさる。そこで、もう、寒かっても暑っても、裸足でお歩きになると、まぁ、色々と、謹上勤名のものが、取沙汰をするようになる。それを、奥様が、大変気に病まれて。あなたは、神様神様で、一生懸命でおありなさりましょうけれども、それを、そばで聞く私は、術ないと。信心きちがいになったんじゃなかろうかと、または、あんまり、信心信心と言うて、信心にぼうけてしもうてから、ね。草履ひとつ、草鞋一足作る暇が無いのだろうかと言うて、笑うておると。だから、どうぞ、草履を履いて下さいと言うて言われた時に。それもそうじゃなぁという風に、受けておられますね、教祖様は。そんなら私が、不精で作っていないという事ではない。まぁ、私は、足が痛いとか、悪いからとか、あの、裸足になるのであって、もう、草鞋や草履は、何時も作っておるんだという事を、あんたが、後ろから、持って着いて来てくれと、言うておられるです。ね。ですからまぁ、それ以来、牛を引いていかれると、牛の背中に、草鞋を、こうやって着けて、田んぼに出られたと、お伝記にございますね。だから、そこん所ばかりを言うんですね、金光教の信者さんは。だからその、コリを積ませちゃならんとか、円満な、もう、あちらも立ち、こちらも立つ様に、だから、そこまではね、おかげの世界なんですよ、実は。ね。
例えば、ほんなら、またのご伝記に、ある時、神様から、お指図があった。親戚の誰それが、亡くなったから、ね。近所に住んでおる親戚全部、連れのうて誘うて、お悔やみに行けと、お知らせがあった。びっくりされた教祖様は、もうその、近所隣におられるご親戚を誘うて、その、○○さんのところに、お悔やみに行っておられます。ところが、当のご本人が、出て見えたんですね。はぁ、皆さん、お揃いで何ですかと、こう言われた時に、まぁ、それこそ、本当に、穴があったら入りたいような思いで、おありになっただろうと思いますね。お伝記には、そうは書いてありませんけれども。恐らくはですね、その、お悔やみを受けた方の人も、縁起でもない。もう本当に、坊さんが、信心気違いじゃからと言うて、悪口言われたに違いないです。ね。ほんなら、連れのうて行かれた、親戚の方達もですたい。本当に、忙しいところに、あれが、信心気違いじゃけんで、こげなこつしてからち言うちから、恐らく、そこは書いてないです、お伝記には。悪口言うたとか、けれども、想像されるんです。そうじゃろうと思いますです。ね。それでも、そこんところを、ある意味で、平気でですね。あの、かえって悪い。帰りがけに、神様から、戻しの風はじゅうそう倍、戻しの風はじゅうそう倍と言うて帰れと仰っておられる。さぁ、その、じゅうそう倍、そこがお徳なんです。
私は、今日は、そこんところをですね、思わせて頂くんです、しきりに。決して、教祖金光大神、ただ、円満というだけ、神様に向かっては、事、神さんに向かわれたら、人が何と言うても、悪口を言うてもですね。そこを、やっぱり、押し切って進まれたと言う。そこにね、金光大神の神様からの、いよいよのご信用が、厚う頂かれなさったんだという事を、今日は、感じますね。ただ、八方美人的に、あっちにも良かごつ、こっちにも良かごつ、それは、おかげを頂いて、円満具足の、生神金光大神のお徳を受けられてからは、別ですよ。受けられてからは、もう、なるほど神様じゃなぁと、信心の無い者は、みんなが、そう言うたんですかなね。それは、そうなんです。けども、そこまでに至られるまではです、やはり、そういう事なんです。本当に、神様は、本当のことを教えずに、嘘ばっかり教えなさると。と、いうなら、神の綱が切れたと言うても良いような時なんです。けれども、そこんところを、実に、純粋なね。神様が、戻しの風はじゅうそう倍、戻しの風はじゅうそう倍と言うて帰れと仰ら、その通りの事をなさっておられる。その、戻しの風はじゅうそう倍、そのほうが、私は、お徳だったと思う。お徳を受けられたと思うのです。ね。人にコリを、恐らく、積ませてあるに違いはないですよ、それで。その一事から言うても。ね。
実は、昨日、私も、ちょっとその、お悔やみ受けた訳じゃないけれども、そんなことが、ちょっとあったんです。私じゃないけど。と言うのは、昨日、家内が、夕方です。あの、久富正義さんが、旅行されると言うて、お別れにみえとりますち言う。馬鹿じゃけん、何がお別れかち。はっはは、ね。お届けに見えとるとたいち。と、言いながらもです。もう、何か、それが、しきりに引っかかって仕方が無いのですよ。ね。お別れに来た。旅行に行くとにお別れに来とるてんなんてん。たった、二三日の旅行する。富士山に、業者の方で、今度、行くことになった。まぁ、それで、そのお届けに来ておるのを、家内が取り次いでそういう風に言うもんですからね。正義さんが、旅行されるから、お別れに来とりりなさる。何がお別れかち、あはっ、お届けに来てあるとたい。そして、正義さんが、裏へ来てから、色々、お届けをさせて、その、色々、聞かせて頂きながら、何かですね、ほんなごて、お別れになるとじゃなかじゃろかち言うごたる思いがするとですよ。しきりに。まぁ、お茶も頂かんで帰る。まぁ、とにかく、最後の分かれになるかも知れん、まぁ、お茶ぐらいいただか、・・・。まぁその、言いはせんけどたいね。お茶を出して、そして、帰ると言うから、正面玄関まで、送って出ました。送って出ながらもですたいね。もう、最後まで、あの、私の姿が見えるまで、こうやって、頭下げて行くのを見てから、ほんなこて、これはお別れになるのじゃなかじゃろかと思うて。行きがけは汽車で、帰りは飛行機で帰るち言うけん、帰りがけ、飛行機が落ちどんすりゃ、もう、それぎりで、五十人のその、・・・。ね。ほらもう、五合目まで行くそうですけども、それこそ、バスが転落するといったような場所もあるに違いは無い。もう、そんな事をその、まぁ、悪い事を思いだすと、悪い事を、次々と連想するわけですよね。それで、あの、行った後、車をこうやって、拝ませていただきよりましたらね。あの、会うた時が、いとまげという事を頂いた。その時に、私は、はっと思いました。あれは、会うた時が、いとまげという事は、もう、本当に、会うた時がいとまげじゃけんでと言うのは、これは、淋しい、まぁ、何と言うでしょうかね。もう、それこそ、お互いが、何時死ぬやら、ころっと死ぬやら分からんち言うわけです。ね。だから、そういう心持で、人に相対しなければいけない。ね。例えていうならば、今日、私が、皆さんに伝えさせていただいておる、このお話が、私がもう、ね。私が、もう、これが最後の御理解になるかも分からんのです。してみると、あれは、親先生の遺言だという事になるのです。ね。だから、そのぐらいな気持ちで、御理解を頂かなければいけないというのです。人に会うた時にはです。もう、この人とはもう、これが最後の別れになるかも知れんから、大切にしなければいけない。ざっとしたこっじゃいかん。ろくそなこっじゃいかんという事なんです。という事を思わせていただいて、ははぁ、ここんところを教えて頂くために、家内を使うて、あぁ言うような演出をしてくださったんだなぁ。一時ではいるけれども、淋しい思いをしたのも、そのためであったなと思わせて頂いたんですけれどね。
それから、あの、今日は、息子を使うて、日田にやっとりますから、どうぞ、万事お繰り合わせ頂く。日田に、綾部さんの所に、大きなこの、亀甲型の、ケヤキ作りの火鉢がある。ちょうど、私の茶の間にありますような、あれを、一回り大きくしたのがあるから。あれを、こちらへお供えしたいと、こう言われる。それで、正義さんに、頼まれておったらしいから。自分が行かれんから、息子達をやった。トラックもっていただきに、まぁ、やったわけなんです。それで、あの、ま、一時したら、帰ってまいりましょうから、と言うて、言うておりましたから。そしたらやっぱ、しばらくしましたら、何時までたっても来ませんもん。それから、表まで、見せげやりましたら、ちゃんと表に、ほうからかしてから、帰っとる、黙って。ね。
今朝ね、御祈念の時に、その事をしきりに頂くんですよ。あれはその、中が亀甲型になっていて、中にさっとこう、一枚板の、見事な蓋が出来るごとなっている。ちょうど、飯台になる訳ですね。いわゆる飯台です。本当の飯台です。中はと、開けてみると、これが、もう、それこそ、わざわざ、そのために炊かれたのかと思われるような、まだ、新しい藁灰が、一杯詰めてあります。そして、その上から、蓋が、こうしてある。と言う、その事を頂いてですね。ははぁ、亀甲といや、亀ですはね。昨日、こうやって、私は、お供え頂いたんですけれども。まぁ、こりゃ、親先生にと思って、茶碗買うて来たのに違いありません。それでから、ここへ、もう、早速、使わせて頂いておるけれども、私の事を、亀のお知らせを頂くですはね。ですから、その、亀甲の内容と言うもの、ね。私の信心の内容と言うものは、どういう事かというと、いわゆる、「はい」なんです。灰が一杯だという事なんです。いやぁ、本当、そうだなと思うた。ね。だから、その、神様の前に、何でも、「はいはい」とこう言うとりさえすりゃ、気安いごたるけれども、場合によっては、教祖金光大神様じゃないけれどもですたい。ね。もう、本当に、この家に寄ってやれ、このうちに病人がおるから、寄ってやれと仰るけん、寄らせて頂くと、もう、それこそ、元気な人ばっかりでね。もう、どげん言うて、出て良かじゃ分からんから、すみませんけど、お水いっぱい下さいと言うて、もう、全然、知らん家でですよね。お水貰うて、そらもう、向こうはもう、そら、胡散臭そうにしてですね、あの、身なりが悪いでしょう。普通の通り、修行中の時分ですから。けども、そういう時が、私は、いうならば、戻しの風はじゅうそう倍のおかげを頂きよったときだったと思うのですよ。ね。それだけの事じゃありません。本当に、難儀の骨頂というときにです。考えて見ますと、いわば、もう、神の綱が切れたのじゃなかろうかと思うごたる、ひどい中にです、それを、私は、いよいよ、大事にしたと、自分で思うております。ね。
神の内容と言うのは、私の内容と言うのは、中が一杯、「はい」なんです。ね。都合の良かこつばっかりありません。もう、そげなこつするなら、恥ずかしかという事もありました。もう、神様、そげなこつだけは、まぁ、しかし、一遍、私は、神様に、その、もう、そげなこつ言いなさったっちゃ困ると言うた事がありますがね。もう、私の事を、みんなが、狐憑きとかという様な時代なんです。親教会でも、みんなが、そういう眼で見ておる時です。お祭りが済んだら、まぁ、みんなが帰らないうちにね。神様があの、上着を取れと仰った。洋服を着ておるとに、上着を取ったら、バンドを取れと言う。それから、バンドを取った。そしたら、それを脱げと神様が仰る。もう、私はもう、本当、それでものうても、神様、私の事を、みんなが狐憑き、狐憑きと言いよるとにですね、私は、ここで、裸にどんなったら、いよいよ、狐憑きち言うに違いなかけん、神様、これだけはいっちょ、もう、堪えてくださいち言うた事があります。あぁいう時に、私が、平気で裸になっとったら、まぁだ、おかげいただいとったでしょう、と、今思います。ね。だから、「はい」と言うことには、そういう事すらがあるとですよ。ね。
いわゆる、超常識と、昨日、私が、申しましたような、金光様のご信心は、そこの、超のつく時にです、私はその、やはり、おかげの世界から、お徳の世界に移っていく時なんですから、ね。大事にしなきゃ、いわゆる、神の綱が切れたのではなかろうかと思うような時ほど、大事にしなければならないと言うのです。
昨日は、敬親会でございました。それで、何時ものように、私を中心にして、色々と、話をさせていただいたんですけど、中に、あの、いなかずの高山さんが、たびたびお参りになります。あの、敬親会たんびに。もう、本当に、親先生もう、合楽合楽と言うて来よりますとね、ちょうど、大木橋の上で、ここに参って来よりなはる方の自動車に拾うてもろうて、ここまで、歩きもせずに、おかげ頂いたと。本当にもう、私は、もう本当、こういうおかげを頂くのにもかかわらず、こういう神様の御守護を受けておるということは、分かりながらもです。もう、今年という今年ばかりは、もう、それこそ、泣きの涙、心配のしじん、子供達がもう、お母さん、あんた、そげん心配するならあんた、もう、金光様の信心するもんじゃなかじゃんのと言うけれども、私が心配は、格別と言うて心配をしてきたと、こう言うのです。もう、この方は、昔からもう、ありがた婆さんと言われるくらいにですね、もう、とにかく、一番初めに参ってきた時に、みんなが、マッチをするときに、はぁ、有難いなぁと思うけれども、その、軸を捨てる時には、ぽんと捨てるて。その、みんなが、捨てる時に、はぁ、有難うございましたと、軸にもお礼を言いなさいと言うのが、一番初めの御理解でした。もう、それからというものは、もう、何でんかんでん、拝みさえすりゃ良かですねと言うのが、高山さんの信心の流儀でした。大変、おかげを受けて、それから、何年間、信心が疎遠になりましてね。お参りしてこなかった、ある事情で。それから、最近、また、お参りをしだしましたけれども。一番下の娘さんが、もう、本当に、話を聞くならば、本当に、親なら、心配せにゃおられまいち言うごたる事態が、起きてるわけなんです。たくさんの兄妹の、一番下の子供が、孫を連れて、今、こっちに帰って来てるんです。そして、それだけのこっじゃない。もう、本当、それは、あの、心配するとが、ほんなごつちいうごたるです。けれども、合楽の信心をいただいとるならば、そげん、心配をせんで良かつですもんね。
親先生、私は、ここに、こうして、お参りをしてくる時にですね。もう、それこそ、菜種の花を拝み、蝶々が飛びゃ、蝶々を拝み、ね。もう、蓮華草が咲いとりゃ蓮華草を拝んで、拝み拝みやって参りますと、何時の間にか、当時の椛目に着きよったち。そして、それがもう、本当に、なんとも言えんおかげを頂いてきたと言う。此の方の道はもう、有難い有難いで開けた道じゃから。嘘にでも有難いと言えと仰るけん、嘘にでん、有難い有難いでやってきましたけれどもです。もう、今年という今年ばっかりはです。ちょうど、前がお宮さんで、桜の花が一杯咲きます。ところが先生、今年ばっかりは、そん、桜の花が、心配のために、見えませんでしたち言う。自分の心が、真っ黒うなる。心配だとね、どんな素晴らしいおかげてでも、見えん様になるです。私は、これは、素晴らしい表現だと思って、聞かせてもらった。ね。ここんところにです、信心の、いわゆる、おかげの世界から徳の世界への移り変わっていく、その辺の所を感ずるでしょうが。ね。お参りをしてくる、とにかくもう、しらごっでん良いけんで、拝まんの、下駄も拝まんの、自動車も拝まんの、もう、有難うございますち、嘘にでも言わんの。こういう言い方が、確かにおかげを受けるです。ね。だからそら、おかげの世界でしょうが。だから、皆さん、本当にね、だから、おかげの世界にでも、本当におかげ頂きたいなら、もう、それこそ、何でんかにでん一つ、あの、お礼を言うとかね。その、有難うございますを言わせて頂けれる稽古も、こら、大変有難いことです。ね。
ところがほんなら、事、なら、娘のそうした病気とか、難儀な問題というものを持って来られた所が、もう、心配で心配でたまらん。今まで拝みよった、その、拝みよった対象が、もう見えんごつなった。自分の心が真っ黒なって。目の前に咲いとる、その桜の花すらが、今年ばっかりは、何時咲いて、散ったじゃ覚えんごたる事でございましたと言うて、ここで、涙流してお届けされますから。もう、本当に秋山さん、あの、高山さん、おかげの世界から、徳の世界に移っていくちいう事は、難しかのち言うて話しました。けれども、信心が、あのまま続いとるならば、それこそ、子供達が、兄弟達が、心配したっちゃ、んにゃ、心配はいらんばいち、言えるとこやったろばってん、あんたが、信心ば、一時ばっかり、ご無礼したもんじゃから、こういう事じゃんのというて話したことです。ね。
今日は、私は、ね、いわゆる、おかげの世界から、いわゆる、徳の世界へ移っていく時、いや、金光大神は、もう、その、徳の世界の事だけを教えておられると言うても良いです。ね。和賀心時代、ね。天地書附、もう、天地書附のためにです。いうならば、この、全ての御教えがあると言うても過言じゃないです。私共が、和賀心、どのような場合でも和賀心、ね。ですから、ね。お天気の日だけは、有難い有難いと、こう言うけれども、自分のその、都合の悪い、雨が降ったり風が吹いたりしてくると、もう、その有難いことが分からんごとなると言う様な事じゃなくて、その、雨にでも、風にでも、お礼を言えれるような信心こそがです。もう、神も仏もないものかと思われるような時こそ、大事にして行けという訳なんです。ね。そこを、大事にしていく人だけが、お徳の世界に入られるのです。ところが、お互いが、はぁ、これが、お徳の世界に入ると言うところで、ぴしゃっと、落第していく。そしてまた、おかげの世界さん、後戻りして、一生、おかげの世界を、うろうろ、堂々巡りの信心で終わってしまうという事は、本当に、教祖、生神金光大神が、それこそ泣きなさる、それじゃ。ね。
さっきの火鉢の話じゃないけれども、ですね。飯台であります。飯台、ね。飯台とは、飯の台と書いてある。飯という事は、ままと言うから、結局、お互いがね、一切のことが、ね。ままになると言う、おかげの土台と言うもの、土台。台。ね。一切のことが、ままにならせて頂く事の為の、土台を作るための信心を、本気でしなければいけない。とかくに信心は根を肥やせと。ね。肥やしておけば、ひとりでに、物が出来るようなものであると仰る。ひとりでに物が出来る。願わんでも、頼まんでも、一切が成就して来ると言うおかげ。ね。それを、今日は、私は、ね。もう神の綱が切れたのかと思われる様な時に、ね。いよいよ、神愛を悟らせて貰うて、そこを、いよいよ大事にしていかにゃ。より大事にしていかにゃいけない。ね。そこには、ほんなら、それこそ、右向けちいや右、左向けちいや左、それこそ、馬鹿んごと、神様の前に、素直にならせてもらうと言うか、はいと言う事で、その火鉢が一杯になる。いやぁ、本当にこりゃ、どういう意味で、この、今から、夏になるとに、こんな灰ば入れてあっただろうかと思うてね、不思議でたまらん。なるほど、今日は、こげな御理解頂かんならんけんと思いました。新しいと、まぁだ、炊いたばっかりのっじゃん。それが、いっぱい詰めてある。ね。これが、私の信心だという事。あの火鉢を、皆さん、囲んだ時に、これが親先生の信心だ。そして、ここでお茶を頂いても、ご飯を頂いても、なるほど、この信心あって、この土台があって、こう言うほんなら、おご馳走も食べられるんだという事になるわけなんです。ね。全てがままになると言うおかげ。ままになる、その土台を作らせていただこうと言うのです。しかも、この世だけではない。あの世で、言うなら、極楽に行かせて頂く土台を作るのが、金光様のご信心なんだ。ね。あだやおろそかには出来ません。
次の御理解十八節に、「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれると言うことで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげを受けられるぞ。」と仰る。ね。生神というと、大変難しいのですけれども、また、説明が要るのですかれども。みんなも、その通りのおかげが受けられるという事は、みんなが、そういうね、全てが、ままになるおかげの頂けれる道を教えておられる。誰でも、そういうおかげの頂けれる内容を、神様に頂いておるんだと。これが、金光様のご信心の、いわば、焦点なんです。例えば、百万おるならば、百万の、その信者がです、ね。生神を目指して進んでいくと言う信心。
昨日、秋永先生が帰ってみえて、もう、今度ももう、それこそ、神様のお引き回しに恐れ入っていしまう。もう、それはそれはもう、合楽だけの為の、合楽をPRするための、今度のあれだったと言われる様なおかげを頂いて帰って見えとる。大変また、折があったら、先生から、ゆっくり聞かせていただきたいと思うのですけれどもね。もう、色々、本部で、色んな事を言うておる。そげな事じゃいかんち。ね。今、合楽で、和賀心時代を作ると言う。こういう素晴らしい教えがあるのだから、何故、これに向かって焦点を置いて、進まないかと。ほんなら、和賀心になるためには、どういう事にしたら良いかと、何をしたら良いかという意味の事を、まぁ、強調しております。ね。だから、そのことのための、全ての教えが、こうしてあるのですから、ね。それが金光様のご信心なんです。皆さんが、朝の唱える、天地書附、ね。ですから、いわゆる、和賀心が神に向うていくという信心をさせてもらわなければ、和賀心は頂けんのです。ね。で、その和賀心に向こうていく、その過程においてです。おかげの世界から、神になる世界とでも申しましょうか、ね。人間の世界から、神様の世界とでも申しましょうか。おかげの世界から、徳の世界に移っていく時です。それこそ、神の綱が切れたのじゃろうかと。あれほど信心してござるとに、どうして、あげなこつが起こるじゃろうかと、周囲からでも笑われる様な事があるて。けれども、心は燃えておる。有難いでいっぱいじゃ。人は笑いよったっちゃ、こっちは有難い、そういう心の状態になれれるのがそうです。高山さんの場合は、何年間という信心が疎遠になっとったから、途端にそのことが、心配で心配で、ね。目の前に咲いとる桜が見えんごと、心配したと、こう、まぁ、言っておられます。ね。信心は、私共は、うまずたゆまず、そこんところに焦点を置いていくならば、ね。神様が、必ず、ね。いわゆる、一切が、ままになるところのおかげ。いわゆる、飯台がですね、お互い、まぁ、その飯台を作らせて行きよる為にです。信心しておる。だから、その内容は、どこまでも、「はい」でなからなければいけない。「はい」と言うのは、どんな場合でも、素直にあらなければならないと言う意味なんですよ、ね。どうぞ。